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2020.10.16 無謀にも女子サッカーのアプリを作ろうとしていた時期があって、iOSのバージョンを構築するために最終的にどうしてもMacのマシンが必要で、中古のMacBookを持っている。ここを書こうとしたときに、インターフェイスを少し変えたくて、ふとこのMacを使ってみようと思った。Windowsで作っているのと同じものを実現するのに、一日四苦八苦する。Macを触るのは大昔、美術雑誌の簡単な書評やインタビューのバイトをしていたとき以来で、仕上がりを確認していただけのほぼ素人なので、大変だ。でも、道具と仲良くなるのは楽しい。WindowsではできないことがMacでは自由だったり、もちろんその逆もいろいろある。同じことを実現するのにも手段が違う。WindowsとMacの互換性を実現するのも面白い。少し、ゲームやるようなつもりで遊びながら。*そうそう、MacのSafariで覗いたら、昨日の記事の写真がMacでだけ全部横向きになっていて笑(ちなみにiPhoneのSafariでは大丈夫)、それを直すのも一苦労だった。デバイスの違いを以前よりはかなり意識しないですんでいるとはいえ、信頼しすぎてはいけないのだな。これだけバカ単純なプログラムにしていても齟齬が生じる。通じているつもりで、通じていない怖さ。*【地区】内の地区gで、消滅したと書いていた、ベランダのプランターにいたルッコラ。地産地消を目指す団体から種をもらったもので、ゴマの風味のするハーブの一種だ。プランターには水はやっていて、雑草が生えてきたなぁと思っていたら、実はその合間でルッコラもこれまででいちばん大きく育っていて、びっくり。今日は夕食当番だったのでサラダプレートに乗せて美味しくいただいた。きゅうり、トマト、茹でたほうれん草とエノキダケ、ゆで卵、冷凍のシーフードミックスをオリーブオイルとお酒で炒めて、お塩で。夕食の時間を繰り上げ、夜は炭水化物を摂らなくなって、ふた月くらい。昼食に重点を置く食生活は悪くない。*スマホの通知を最低限にして、確認も最低限にして、遠くからやってくる情報を制限する。今それで安心できているのは、社会に戻ってきてから頑張りすぎて、少し疲れているからなのかもしれない。
2020.10.17 20年前、地区dで私から放り出された分身のミムラ。彼女はずっと地区で言葉の布を織っていた。呼応するように私も言葉の布を織ってきた。かつてのような情報奪取の強迫観念はなく、今、十分に私は一人だ。ここは言葉の布を織る工房で、それが人知れず一般公開されているような感じだろうか。何かが出来上がるという確証もなく、私は日々の手仕事として、ひたすら布を織る。Macの入力変換は、Windowsとはかなり異なっている。Windowsでは、中学のときにお下がりにもらったパソコンを触って以来ずっと、日本語辞書を、当時から変換能力の高かった一太郎系統=ATOKにしていたが、2年ほど前だろうか、突如うまく動かなくなって以来、Googleの日本語辞書を使用している。GoogleとmacOSの違いといったら、キーボードを打っていると書ける言葉が変わりそうなほどの感覚だ。macOSがここまで優秀になっているとは知らなかった。また夜中にカップラーメンを食べてしまった。いつの頃からだったろう。自分で食事内容をコントロールできるようになってからだから、実家を出てからだろうか。生理が近くなると、なぜか夜中に強烈にカップラーメンが食べたくなる。生理によって塩分が排出されるのを、あらかじめ身体が摂取したがるのだと医者に教えてもらったのは数年前のことで、それまではひどい罪悪感に苛まれながらカップラーメンをすすっていた。罪悪感といえば、生理が始まった頃から、毎月原因不明の激痛が走った。子宮内膜症という当時まだあまり知られていなかった、いまだに原因不明と言われる病気だと分かったのは、大学のときに担ぎ込まれた病院でのことだった。そんなわけで、生理はいつも自分が罰されているような、深い罪悪感とともにあった。スポ根か、スパルタ教育のようだった。亡き祖母はいつも「しっかりしなさい」と私を叱咤した。病名が分かるまでには、別の家族に仮病だろうと詰られることもあった。「あった」と過去形なのは、今の病気の薬が強すぎて、生理が数カ月止まったおかげで、子宮内膜症が完治したからだ。仕組みは明瞭なのだが細かいことは省く。出産に関する大切な機能なのにもかかわらず、生理にまつわる、間違った否定的な感覚がここにも露出している。教育の改良が求められる。YouTubeには自分はハマらないと思っていたが、カードリーディングの占いでハマった笑。そのおかげで他の占いから逃れられているのが不幸中の幸いだろうか。直感を武器に生きていると、「すべてのことはメッセージ」(荒井由実「やさしさに包まれたなら」)になりがちで、”見たときがそのときです”的なものに弱い。占いは、偶然性の高いものほど、すべからくそこを突いてくる。共時性(シンクロニシティ)が自分の強みでもあると同時に弱点だと自覚しながら、鑑賞者の傾向を狙ってくるネットビジネスをやり過ごし、付き合っていくしかなさそうだ。願わくば、人間のコンプレックスを刺激することで収入を得るような広告を廃したい。ネットにおいては、同じ内容を探していても、他者と私で見ているものが同じとは限らない。ある物事に対する経験が、個人によって異なるのと同じくらいの差が、ネットという巨大なAI相手にでも同様に起こっているのだろう。AIなのだから同じ問いに同じ答えを返すというレベルは、とっくに越えられている。Netflixの『監視資本主義』というドキュメンタリーとフィクションを混ぜた作品では、SNSに付随するネットビジネスに過去に関わった経験のある、錚々たるメンバーが出演し、その危険性を指摘していた。傑作だと思うが、ネットから提示される情報への極端な遮断は、すでに難しい局面に入っている。アーティストの落合陽一が実験しているような、AIによる身体の補完の優秀性を考えるに、人間の身体からのAIによる情報収集を「監視」と考えるかどうかも、未来の構図を変えていくことになるだろう。
2020.10.18 自分というのは何でできているんだろうと思う。外部に接触した瞬間に自分が立ち上がる、その自分は、常にの意識を立ち上がらせる=触発する外部とともにある。が接触した外部に起こったことが、に起こったことであり、それらがまとめて自分自身になる。自分というのは、完全な自己完結は不可能な形態なのだ。「在りたいように在るためには、在りたいところにあるものを多く見ること」(江島直子)。神さまから聞いた言葉だという。外部が常にとともにあるなら、なろうとするになれる外部のある場所へと、移動する必要がある、もしくは視界に入れる外部を、自ら意図的に選び取る必要があるということだろうか。なろうとする。そのイメージが今は何もない。ここには外部は存在していないからだ。そういう場所だからこそ、言葉の布が織れる。ここから出たら、その瞬間から外部に晒される。がかつてそこでフィクションを生み出していた、何もない白い場所。そう、ちょうどただの白い紙、白紙に似ている。ああ、糠床をかき混ぜなきゃ、そうやって外部に引き戻される。の多くは、常に外部とともにある。強制的に。生きる苦痛。外部に手が届かず、外部に夢を抱いていた、かつての途方もなく孤独だったは、情報のすべてがあらゆる他者と共有されるへと病化し、孤独は、を覆いつくした壁は、自我の境界に至るまで粉砕された。それが、が唯一、幸福になるために選んだ道だった、としたら? ワンネスの仮想体験。夢で、好きな人に、「実行力がないくせに考え方がしっかりしている人が嫌いなんだ」と言われる。近頃は、だいぶ精神的にスリリングな夢を見ている。静かに暮らしているせいかもしれない。
2020.10.19 本日の文献。直感の連鎖による出会い。「思弁日記2020.10.18」(+M・note)。『内臓とこころ』(三木成夫・河出文庫・2014・Kindle版)。『こころは内臓である スキゾフレニアを腑分けする』(計見一雄・講談社選書メチエ・2018・Kindle版)。は植物系(内臓系)の思考を中心に生きていて、動物系(体壁系)の思考の仕方、中でも特に筋肉系(運動系)が弱くなっているのかもしれないと考えた。ちなみに、『内臓とこころ』では、内臓系は、腸管系(吸収)・血管系(循環)・腎管系(排出)、外壁系は、外皮系(感覚)・神経系(伝達)・筋肉系(運動)の区分になっている。人間のいわゆる「意識」に上るのは、外壁系に限られている。もう一点、『内臓とこころ』を読んでよかったのは、言葉の関する内容である。発声器官にまつわる生物史学的な構造も興味深かったが、言葉の発生についてのことが非常に腑に落ちた。言葉はコミュニケーションを目指して誕生したと言われることもあるが、は世界に対する名付けの欲求(世界に対する焦点合わせと指差し)から始まったと思っていて、実際、は自分が使う言葉のほとんどを、自分が接している世界を理解するために使っている。ヒトとしては未熟な使用法かもしれないが、幼児の頃に世界を理解しはじめたときの感動を、はいまだに大事な記憶として維持している。『こころは内臓である』からは、スキゾフレニア(統合失調症=が20年付き合ってきた病気)に関する考察だけでなく、怒りや攻撃性(アグレッション)による自己(人格)の陶冶こそがヒトの成長であるという指摘を得た。まさに動物系の側面だ。アグレッションは、いつの間にかが苦手とする表現方法になっていて、そこが病気を引き入れた原因となった可能性があるとも、本書を読んでいて感じられた。感情として表面化してこないアグレッションをうまく注ぎ込める、注ぎ込んで自分をコントロールできるのが、にとっては書く行為を含む、ウェブ上での「制作」なのかもしれない。もっと負荷をかけないと=難度を上げないと、アグレッションを健全に昇華しきれないかもしれないが、そこは回復の度合いによって進めていこう。最近、様々な示唆によって、自分の弱点が少し見えてきた。裏を返せば長所かといえば、そうとも限らない。バランスの問題と言うべきだろうか。ただし、得意とする人と同じような仕方で克服するというより、なりにそれに該当するエネルギーの使いようを考える、例えれば火力や原子力よりも自然エネルギー、という方向性で。
2020.10.21 昨日からふと思い立って、地区(このHP)の20年を振り返ってみた。混乱の中で失われたと思っていたものも探してみたら残っていて、すべてにではないが目を通した。非常に痛い内容だった。凹んだ。でもそこには確かにの20年があった。は、表現しようがしまいが、たいてい好きな人がいる。人を好きになるというのは、この世界において、自分ではないものを取り入れるいちばん効率のいい方法だと思っている。その人が世界の中で好きなものを(直接でなくても)教えてもらったり、それを自分も好きになったり、一緒に学んだりできる。自分の方法ではない方法で、その人が世界を取り入れる様子を、ただ嬉しく眺めている。嬉しい楽しいから、吸収も早い。病気でいる間、人を好きになることが本当につらかった。今思うと、気持ちが叶わないからというより、好きになること自体が、まるで禁止されているかのようにつらかった。これが病気による作用だけでなく、薬の副作用による可能性があると分かったのは、減薬しだしてからだ。薬は、妄想も何もかも、気持ち関連を何もかも抑える。結果として、気持ちが抑えられない自分を責めつづけた。今も好きな人がいて、叶わない気持ちだけれど、今までのような得体の知れない禁止は感じない。それがどれほど幸福か。ただ、その人を好きなこと、その人が幸せでいてくれることに安心を覚える。だからと言って、妄想の気質が完全になくなったわけではないのかもしれないが、少なくとも総合的な状況を悪化させるような(今まではそうだった)気持ちにはならない。禁止されることによって生まれていた間違った執着や強すぎる思慕、極度の依存のようなものも、今はない。その人の邪魔にならないような場所から、その人を好きでいる。が、世界をあきらめないために。多分は、一人ぼっちだと世界を放棄してしまいそうなのだと思う。そのこと自体は、幸でも不幸でもない。世界に戻ってきたときにいたのがその人だった。生まれたてのヒヨコみたいなものなんだろうか、その人が世界にいてくれること、そのことが、今のを支えている。片付けついでに、地区全体をこちらのアドレスへお引っ越ししました。スマホが存在しなかった、意識しなかった時代が長く、スマホでの表示は保証できません。内部リンクは整えたつもりですが(修正を施したのはそこだけ)、外部へのリンクは切れているものがほとんどです。昔のものほど、強制的な定休日があったり、日にちによってあちこちに飛んだりして、今の便利なご時世には合わない仕様になっています。留守電として長らく置いていたフォームは、いつの間にかサービスが終了していたので、某所に連絡先を置いておきます。よろしくお願い致します。(BGM:iTunes shuffle「それだけでうれしい」矢野顕子
2020.10.22 友人に「あなたが発信にこだわる理由はなに?」と聞かれた。そこで「なるほどー」と思う。過去に地区でも何度も書いてきていることだが、20年前の、つまり地区を始めたときの日本では、まだ発信が自由な状態ではなかった。ネットは一般にも普及しはじめていて、作品を公開することもやぶさかではなかったが、使用できるのはパソコンを所持している人に限られていた。しかもすべて無料で公開するほかなかった。もっと自由にそういうことを設定して、自由に発表できたらいいのに。ご存知の通り、その願いは20年経った今、ほぼ叶っている。スマートフォンの登場により、簡易なパソコンを手元で常に携帯しているような感覚で暮らすこともできる。昨日、昔の地区を整理していて思ったが、かつては画像を投稿するのに、カメラのフィルムで撮って現像した紙の写真を、プリンターと一体になっていたコピー&スキャナ機能で取り込んで画像にしていたのだ笑。発信にかかる手間は半端なかった。そこまでして発信したいことだったかと言われると、当時は発信すること自体に高揚感があって、定かでない。20年前当時、一人でできる発信とは何だろうと考えて始めた地区。20年の間に、は妄想により全身発信機となって(情報の全公開状態となって)、苦痛を伴いながら発信を続けてきたが、今、その妄想も終わって、発信とは一体何なのだろう、と考えている最中だ。全身発信機だったときは、どんな気持ちでも共有されてしまうため、いわゆる悪感情を抱くことはご法度だった。けれど、現在、発信が自由になった結果、発信と言われるなかでは、相手構わず罵詈雑言を吐き出す人が想定していたよりも多いことに驚いている。おそらく、魂の年齢が異なっているのだろう。この世に生まれ出てきた魂は、世界を何れにせよ学ぼうとするが、その学ぼうとする世界の側面が、異なっている。そのことが共有されたことは良いことなのだろう、つまり、自分とは魂の年齢が異なる個体が、世界には数多く存在すること、そして一人の身体にとって、世界には想像よりずっと多くの側面があるということ(ちなみに魂の年齢に良し悪しはない)、その事実が共有されることは、とても良いことなのだろうと思う。個人の発信が今のように盛んにならなければ、これほど分かりやすく共有されることもなかったはずだ。しかし、そういう個体があまた共存するというとき、各所に起こる軋轢を解消するのは、そう容易いことではないと感じる。これからは、そうした、自分とは違う存在との共存の仕方を探る時代になるのだろう。地球上で人間が生き残るために、単なる人間同士の競争を超えた戦略をとる必要がありそうだ。すでに諦めている人も見かけるが、はそれほど悲観していない。今日、新聞で、中学生たちのロスフードやフェアトレードなどといった環境問題に対する嬉しい投稿をたくさん目にしたせいだろうか。ここは、個人からの発信が有効に働いている側面だ。今後、発信はいかなる役割を続けることになるのだろう。発信のプラットフォームが、単なる広告スペースの埋め草になってしまうようであれば(すでに多くの場所で、発信内容とそれに付随する広告スペースの役割が、本末転倒しつつあるように感じる)、どこかで修正が必要になるだろう。地区も、若干ながら賃料を払っているからこそ広告スペースの出現なしで運営できている。これまで時代の流れに沿ってなし崩しにやってきたことも、これから改めて考慮することになる。生活のあらゆる場所で、何に対してお金を使っていくのか。今後は、消費というものが、あらゆる意味で投資行動の時代に入る。この病気では、症状として金銭感覚が失われると同時に、自分でも長くは生きないと思ってきたから、生きることだけを目的に、お金の使いどころを深くは考えてこなかったが、これからはその部分もサステナブル(持続可能)にしていかなければと思う。はてさて、この内容では友人への答えにはほとんど使えそうもない。コミュニケーションで使われる言葉は、個人における発信の言葉とは異なるのだということを確認した。
2020.10.24 のことについて考えはじめたのは、30年以上前だ。教育者哲学者思想家でもあったルドルフ・シュタイナーを知って、何冊かの著書を読んだとき(あるときは、大きな書店で読みはじめたら止まらなくなり、丸一冊立ち読みしてしまったこともあったっけ)、忽然と納得した。の転生のこと、もらった身体におけるに役割があること、それらはによって段階や役割が違うこと。当時大学同じサークルのメンバーに少し話したら、頭がおかしいと思われたようだったので、それ以来、そのことは話さなくなった。最近では、占いやスピリチュアル系の情報を探せば、これらのことは、いろいろな人がいろいろなことを言ってはいるけれど、比較的容易に知ることができる。世界をデザインするのに、の存在を設定する方法は理にかなっている、と思う。また変な目で見られても、は特に言葉を噤む必要を感じない。 精神科医編」(作・くるみざわしん/出演・土屋良太/企画・トレンブルシアター下北沢OFF・OFFシアター) 「鴻池朋子 ちゅうがえり」(ジャム・セッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子アーティゾン美術館6F) 第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示帰国展「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」(下道基行安野太郎石倉敏明能作文徳アーティゾン美術館5F) 石橋財団コレクション選 特集「パウル・クレー」「印象派女性画家たち」(アーティゾン美術館4F) pebbleworks×濱崎仁精2人展(proto 器とタカラモノコロナ自粛期間中に保留になっていたものを消化。芸術家とは、世界に対するアプローチをひたすら模索しつづける人たち。そして、その人たちが生み出す異形(自然とは異なる形)のものたちは、世界において個であり、自然において人間であることを、最も的確に知らせてくれる。だから、あまりジャンルを問わずアートに触れに行く。個々の作品に対する好みはもちろんあるのだが(ちなみにパウル・クレーがいちばん好きな画家だ)、アートが好きか嫌いかという次元は、いつの間にか超越してしまったようだ。色出しは試行錯誤中です。
2020.10.25 昨日場所の色出しをしたせいだろうか、書くことにおける場所性も、の中に感覚されてきた。ウェブで繋がっていても、日記は日記(Evernote・非公開)、メールはメール(対個人)、公開された場所は、地区TwitterInstagram、各ブログnoteFacebook、それぞれに場所性がある。多数の人が関わっているプラットフォームは、それ自体が、載せられる言葉やメディアを規定してくる感じもある。それらは以前から、世界に平面上に散らばっていて、棲み分けのように感じられていたものではあるのだが、の心や身体において、輪郭や、奥行きを持ちはじめた。奥行きが、少し苦しい。定点観測的に戻ってこられるこの場所があってよかった。昨日鴻池朋子さんの展示で見かけた文章がどうしても気になって、美術館のショップで、その文章が載っていると想像した『どうぶつのことば 根源的暴力をこえて』鴻池朋子羽鳥書店2016)という本を購入してきた。本当に載っていた。他の部分も面白いのだが、興奮しすぎていてなかなか進まない笑。ちなみに、地区が開始した当初、根源的な暴力として現れたのはnobodyミムラにとって最初の他者だった。そのままの相手を愛する 愛するとは、若く美しい者を好んで手に入れたがったり、すぐれた者をなんとか自分のものにしようとしたり、自分の影響下に置こうとすることではない。/愛するとはまた、自分と似たような者を探したり、嗅ぎ分けたりすることでもないし、自分を好む者を好んで受け入れることでもない。/愛するとは、自分とはまったく正反対に生きている者を、その状態のままに喜ぶことだ。自分とは逆の感性を持っている人をも、その感性のままに喜ぶことだ。/愛を使って二人のちがいを埋めたり、どちらかを引っ込めさせるのではなく、両者のちがいのままに喜ぶのが愛することなのだ。漂泊者とその影』」「愛の病には 愛をめぐるさまざまな問題で悩んでいるのなら、たった一つの確実な治療法がある。/それは、自分からもっと多く、もっと広く、もっと暖かく、そしていっそう強く愛してあげることだ。/愛には愛が最もよく効くのだから。『曙光』」「愛し方は変わっていく 若いときに心ひかれたり愛そうとするものは、新奇なもの、おもしろいもの、風変わりなものが多い。そしてそれが本物か偽物かなど気にしないのがふつうだ。/がもう少し成熟してくると、本物や真理の興味深い点を愛するようになる。/がさらに円熟してくると、若い人が単純だとか退屈だとか思って見向きもしないような真理の深みを好んで愛するようになる。というのも、真理が最高の深遠さを単純なそっけなさで語っていることに気づくようになるからだ。/はこのように、自分の深まりとともに愛し方を変えていく。『人間的な、あまりに人間的な』『超訳ニーチェの言葉 エッセンシャル版』フリードリヒ・ニーチェディスカヴァー212015)占いがわりに、何も考えずぱっと開いて読んでいた本。今日愛の日らしい。何かを誰かを愛している時間は、一人きりの妄想の時間とは別の意味で混沌としているが、その自発性ゆえか、あるいは他者性ゆえか、豊かで贅沢に感じる。
2020.10.26 起きて、いきなり「つまらない」と思った。つまらないと思うのはこれまた久しぶりで、よくは覚えていないけど、病気の間はそんなこと思っている余裕はなかった気がする。20年前の、病気になったときの私は、この世界が究極につまらなくなっていたのかもしれないと思った。つまらない自分のお守りをするために、少し遠くの初めての場所に散歩に行って、初めてのお店で少しの買い物をして帰宅。その中には小さめのノートとペンもあった。自分の場所自分の身体に取り戻すこと、それがしたいと思った。いま自分の歩いている場所自分のいる場所で、自分の目に見えている物体が自分のそばにある、今日出会ったもの。そんな感覚。手書きの感覚を取り戻したいとずっと思っていたから、いいチャンス。こことは書けることが違うから面白い。自分の身の回りを、もっと自分のものにしたい。実感を得たい。今さら人生を急ぐ必要もない。少しずつでいいさ。
2020.10.27 ある人が読んだらしいと分かって、タイトルと作家の名前だけ知っていたある小説を読んだ。表題作は芥川賞受賞作品だ。読んでみると、収録されている2編とも、傾きかけた家族の話だった。表題作は息子の話だが、母親の再婚話となると他人事ではなく、自動的に当時を思い返す。あの頃もとても一人だった。「これはあんまりいい方向に行かないなぁ」と予感していても、母親の人生に関われるとは思っていなかったし、関わるべきとも思っておらず、誰かに相談するといったことも(同居していた祖母にすらも)、考えが及ばなかった。の中にいて、自分というものの使い方をまるで分かっていなかった。あれから少しは学んだ時期もあったのだが、病気によって元の木阿弥となり、もまた、まるで分かっていないのかもしれない。そういうことを理解する、あるいはこうして当時を掘り返し、心の自浄作用を得るのが、評価された小説を読む一つの意味なのだろう。ある人は、どんな気持ちでこの小説を読んだのだろう。そういうことも分からないまま、ミームだけが飛び回る。それはそれできっといいのだ?小学生当時を思い出したせいか、冷蔵庫の奥にあった濃縮還元のカルピスを、久しぶりに水割りで飲んだ。昔飲んでいたときよりも甘く感じないのは、時代の波で味が調整されているからだろうか。世界については相変わらず分からないことだらけだ、と思う。楽な気持ちで生きるには、もう少し分かることを増やしたい、自分が分かっていると分かっていることを増やしたいと感じる。具体的にどこから手をつけたらいいのか、これまた分からないのだが笑、とりあえず、身体をもってして生きてみる指針に変更はない。買い物帰りに立ち寄った湧き水は、いい音で流れていた。考えている自分よりも、を歩いている自分身体の感触の方が確かだ、そう思えることが良い方に向かっている証に違いない。安心せよ、自分社会復帰って、精神的な意味に限っても、深刻な症状が治れば自然にできるものかと思っていたけど、意外と大変なのね。が下手くそなだけかもしれない)。
2020.10.29 久々に大きな悪化がやってきた。状態を修復しようとしたのだが、原因を取り除こうとして、より状態の悪いところに入った。この選択に何某かの答えが出るのは、もといこの選択の本当の理由が分かるのは、ずっと先のことだろう。身の危険のようなものを感じて、スマホからSNSの類をすべて消去した。今は、非公開アカウントでの運用も、情報公開の妄想なく(妄想があった頃は「これは非公開として扱ってください」と虚空に頼んでいた)、人並みに実現できる。しばらくは、誰とも繋がらない閉じた自分の状態を、きちんと実感するのもいいのではないか。正直、身体がつらくてやってられない状態だが、こうしてパソコンに向かっているのであり、世界の景色が変わらないから、社会の隅にいることは可能なのだろう。また一人で一からやり直す。この20年の間に何度もやってきたことだ。その頃からしたら、身体のつらさも比較にならないほど軽い。早めに薬を飲んだせいで眠い。どうしようもなくつらくて眠るのでなく、ただ眠くて眠ることの有難さも分かるくらいなのだ。*秋明菊の花の歪さに親近感を覚える。その歪さが、まるで私の心のようだからだろう。
2020.10.30 留守電を復活させました。需要のあるサービスは、探せば無料でも復活してくるものなんだな。表紙の下部からどうぞ。*追記:留守電は、メールアドレスを入れていただくと、返信もしくは不定期の「ドラスナるか。通信」(懐かしい名称、と言っても分かる人は誰もいないでしょう)というメルマガが届くことになると思います。メールアドレスを入れなくても、留守電の伝言は届きます。今回、無言の伝言を実現するのは、安全性の問題からやめました。*最近の検索システムの向上からなのか、独自ドメインの威力なのか分かりませんが、すでにこちらのHPアドレスが検索に載るようになったので、元のHPスペースを解約しました。念のため。*昨日の思い切りがよかったのか、朝に起きられたので、散歩に行って、新しいルートを通ってみた。こちらも植物がたくさんある場所で心地がいい。5月から約半年、人の中で全力で頑張ってきたことは無駄ではなかった、世界において私が無理しなくていい部分が分かったことは幸いなのだと思う。*期間限定のお試しコンポストの生ゴミ投入を終了。ゴミが少なめだったので4週間投入。発酵?期に移行、予定では投入と同期間で堆肥ができあがる。
2020.10.31 ハッピー・ハロウィン!*何年か前に衝動買いをしたムーミンのスマートウォッチ。時間単位やキャラクターシリーズごとに絵柄が変わるのが楽しくて、机の置き時計がわりにしているのが、今日はこれ(上に写真を載せましたが)おそらくハロウィン仕様。初めて見た。次の時間帯にはもういつもの絵柄になっていた。見たいときに必ずしも見たい絵柄が見られない、そんなところも気に入っている。こういうものはInstagramに投稿すべきものかもしれない。でも私にはもう、人の奔流の激しいところに入っていく元気はない。ここにいよう。今も昔も、ネットの辺境であるこの場所に。*今日は月に二度目の満月=ブルームーンで、しかも46年ぶりの満月のハロウィンらしい。石井ゆかりさんの占いでは、山羊座の皆さんには愛のミラクルが起こるそうだ。私にも、起こったのだろうか。今回の満月は、17日の新月に始まったものの実りだそうだから、この地区dを再開して、この20年間の地区全体を見直したことへの実りは、確かに来ているかもしれない。昨日の留守電の復活もそうだし、また少し弄って遊ぼうと思っている。*昨年、いや今年の前半と比べても、家のことがずいぶんできるようになっている。特に、親へのフォローが現実的にも精神的にもだいぶできるようになってきたのは(まだ余裕がないときもあるが)、格段の回復だと思う。物理的に近い人が、本当に「自分に近い」人として認識できるようになってきたというのか。場所や距離感の感覚は、とてもゆっくりとだけれど、確かに修正されてきている(上で数日、色出ししてみて、それに改めて気づいた。リハビリとして、またそのうちやろう)。*今日は久しぶりに富士山に会えた。*いつからか、部屋が暗くなったときに明かりをつけるたびにびくびくしていて、気になっていたので、部屋の照明の蛍光灯を暖色のものに変えてみた。安心して電気を点けられるのが嬉しい☺️。←え? 絵文字出せるの???プレビューもできてるけど、Macだから???
2020.11.1 『A子さんの恋人』(近藤聡乃・HARTA COMIX・全7巻)を読んだ。*近藤さんは、私にとって特別なアニメーション作家だ。たまの楽曲「電車かもしれない」のアニメーション化(大学の卒業作品だったみたいだ。画質悪いけど、たまの公式YouTubeチャンネルでの公開版がこちら→)されたものを、平成14年(2002年)文化庁メディア芸術祭の短編アニメーション部門(近藤さんは奨励賞)の上映で観て、その才能に魅了された一人だ。ちょうど発病してまだ症状が重い頃だったので、一層印象深かったのだろうと思う。*一見、才能を持て余しているようにさえ思えた近藤さんが、現在ニューヨークにいらっしゃるご自身とも微妙に重なるような設定でラブコメ漫画を描いていたのには驚いた。はじめの方は毒舌も多くて、人として生きる才能のない私は絶望に近い感覚を覚えたのだが、読み終わる頃には同調して号泣していた。読む人によって、この漫画との距離感や立ち位置は様々になるのだろうと思うし、この作品に学ぶのであれば、恋なんてハイレベルな人間関係は、私は諦めた方がよいのかもしれない。けれども、たくさん泣いた後の結論としては、たとえもう手遅れでも、相手を間違っていると世界中から烙印を押されようとも、今の恋と相手の人を、自分の気がすむまで大事にしよう、それと同じくらい自分のことも大事にしよう、と思ったのだった。人を好きになるって、安全なことじゃない。自分を失ってしまうことも、相手を失わせてしまうこともある。それでも、人を好きになる。うまくできなくても、自分の人生の中のオリジナルの一点ものだから、私が大事にするほかない。人として生まれてきた意味の中で、その人が私にとって代えがたい存在になったことは、私が私であることと同じくらい、大事なことだ。*この作品には、登場人物が実際に口にしているセリフと、胸中のセリフが違っていたり真逆だったりするコマが多出している。人って本当はこんなふうなのかな? それが普通? 情報全公開時代に、口にすることと心の中が常に一致していなくてはならないという強迫観念に囚われていた身には、この漫画は実はかなりしんどかった。しかし実際での人との関わりにおいては、そうしたギャップが、複雑な心(内面?)を守ってくれるのかもしれなかった。そういう面でのリハビリもしていけるといいのだろうな。手書きの文字とこの場所とでは、必ずしも内面的なことばかりではないけれど、具体性の部分など、いろいろなギャップが生まれつつある。おそらく、それでいいのだ。*ちなみに昨日の絵文字は、MacのSafariでも、iPhoneのSafariやGoogle Chromeでも表示されていたが、WindowsのパソコンのGoogle Chromeでは簡略化されていた(もしかするとどこかで私がフォント指定しているのかも)。確認のご報告まで。
2020.11.3 「人が考えること、発する言葉の多くは、要は自己弁明、自己顕示だ。」 「ある種の不安、焦立ちに急き立てられるようにして、人は「私」を的確にプレゼンする言葉を捜し続けている。」(『魂の故郷』+M・note・2018/11/28)*20年間、私はずっとここで「私」をプレゼンしつづけていたのだな、と気づく。誰もいない場所で。しかし公開された形で。何と恥知らずなんだろう。病気に入る前は、自分の書いたもの(フィクション)に署名するのすら嫌だった。書いたものに自分という存在が混ざるのが嫌だった。完全なシャボン玉を飛ばしたかった。そんな私が、自分が自分自身である証明を、自分の名前で20年も発信しつづけた。それまでの自分を、何と裏切る行為だったろう。病気とは残酷だ。しかし身体が病気(社会からの逸脱)を望んでいたなら、何か私がやろうとしていたことが、身体にとっては嫌だったのかもしれない。もしくは、社会にいては実現できないことだったのかもしれない。残りの人生をかけて、その問題を解(ほど)こう。*愛を誓った翌日に、激しい別れへの強迫観念に駆られる。言葉に出すとは、そういうことだ。言葉にはすべからく否定が含まれているから=何かを否定することでしか対象を指し示せないから、その言葉に立ち返るたびに、否定したものにも直面する。言葉による誓いを守るには、恐ろしいほどの意志が必要で、それは心を健康にも不健康にもする。強すぎる言葉は、そこから否定されるものをもまた強める。言葉とはそういうものだ。強いとはそういうことだ。*言葉にこだわってきたけれど、言葉と相性が悪いのも、自分かもしれなかった。ここでもまた、ヒトとして生きる才能がないことが露呈する。*大切な人との別れへの衝動は、心の状態が悪化するたびに私を地獄に落とした。愛を抱く自分をひたすら責めた。病気や薬の副作用による症状だったかもしれないのに、愛するからいけないのだという原因にすり替わって、また自分を責めた。幼い頃に愛に充分恵まれなかったせいか、愛は私にとって、そばにあるべきではないもの=いつの間にか毒になってしまったのかもしれなかった。だから今は、自分が愛することで、愛というものに慣れようとしている。珍味だって最初は驚いても、美味しくなるときがくるものだ。*私が好きになった人は、私を2回殴った。一度目は、その人が書いた文章に対して、頭を殴られたような怒りを抱いた。そして、そのことを忘れてしまっていた頃に、その人が別の場所に書いていた文章に出会って、恋に落ちた=心を殴られた。一度目は私が病気の主症状から脱するきっかけになり、二度目は私が社会に戻るきっかけになった。その人は、そんな有難い暴力野郎(当社比)だ。*さて、この恥知らずは、いつまで続くのだろう。
2020.11.5 休業日をかつて(20年前)の方法で復活させてみた。できればもう少し仕組みを進化させたい。当時は休業日にだけ特別に行けるページを作って、石の結晶が育つ過程や、チューリップの球根を植えてそれが咲くまでの過程を、地区で初めて写真画像を使って追ってみていた。今なら、何が置かれるのが妥当なのだろう。*wunjo(サステナブル)ブログを更新した。前回更新したときから、ずっと、今の自分に一体何が発信できるのかと悩んで、自信をなくしていたのだが、このコロナ期にサービスを終了してしまったゲームで、終了直前にかろうじて繋がれた人に、wunjoブログを読んでもらっていて、停滞していると打ち明けたら、びっくりするぐらいあたたかな励ましの言葉をもらったのだ。自分を直接、他人に肯定してもらうことがこれほど効くとは思わなかった。この先、何ができるかは分からないが、一歩進むことができた。もらった言葉、大事にしよう。*ところで、ネット上で何をどこまで許諾なしに共有していいのかという感覚が、情報全公開時代が長かったためかなり常識と異なっているのではないかという懸念をしている。いわゆるコピーライトの問題だ。歩いている最中に撮った、他人の家に植えられた花の写真には、どこまでのコピーライトがあるのか、もしくはないのか。花自身はコピーライトを主張はしてこない、むしろ共有を依頼してくる感じだ。世の中では、何がどうコピーライトに属しているのか。コピーライトは、何のためにあるのか。*母親の所望で久々にスコーンを焼く。今の電子レンジでは初めての調理で、指定の時間焼いたら少しだけ焦げた。*日曜日に会ったばかりの富士山、今日は雪景色だった😳。昨日は東京では3年ぶりに木枯らしが吹いたという。冬が順調にやってきている。
2020.11.8 数カ月前に、だいぶ久方ぶりにシャンプーを変えたのだが(ムーミン仕様のボトルに負けて)、匂いがキツく感じてしんどくなっていたので、再びシャンプー探しの旅に出ている(比喩です)。以前に使っていた100均のポンプボトルをとってあったので、そこに新しいのを入れよう!と思ったのだが、洗ってあったものの、前のシャンプーの香りが残っていて、バスマジックリンで洗っても落ちない。乾かしたらイケるかと思ってドライヤーを当てたら、なんと熱で歪んでしまった。さすが100均!笑笑 ということでまた100均にボトルを買いに。今度はボトルの底が工夫してあって最後まで残さず使えるエコタイプというやつにしてみた。見た目はほとんどペットボトルで、おしゃれとは言えないが、最後までスマートに使い切れるのは有難い。どうでもいい話。*昨年7月に回復が始まってから、特に5月に社会に戻ってきた感覚を得てから、失われた20年(というと格好がつくが、別に無駄だったとは1ミリも思っていない)をカバーしようと、少し緊張しすぎていたなぁと気づく。もう少し身体が楽であるように生きたい。今取り組んでいる副作用(遅発性ジスキネジア)とは別に、春ぐらいから、薬の副作用だか呑気症(どんきしょう)だか判別のつかない腹部の膨満感が続いていて、漢方でも治らず、副作用は負荷がかかっているときに最も出やすいから、どちらにしてもストレスなのかもしれなかった。その膨満感があるあたりに緊張で力が入ってしまって苦しいので、力を入れない体勢を考えたら、姿勢をよくすればよいようだった。そんなわけで、最近はしまい込んでいた上半身の姿勢矯正ベルトを装着し、腹筋と背筋をつけるために、部屋の隅にうっちゃってあったバランスボールの上に座っている。バランスボールは、最初の1日で強烈な筋肉痛になったものだった。明日が思いやられる。
2020.11.12 少し気が遠くなっている間に、無事祈願庫。背中が特に筋肉痛です。
2020.11.15 女子サッカーの試合を観ようとして、全く集中できず、パソコンでなくスマホで横になって観ていたら眠ってしまった。目が覚めたとき、自分が本当に女子サッカーから離れたのだということと、自分の中に、自分というものが湧いてくるような感覚を覚えた。*女子サッカーと長いこと繋がっていた情報発信だったが、発信に対する強迫観念が治まった状態にも、だいぶ慣れてきた。サイトを更新しないでも世界はちゃんと動いているし、私も生きている。妄想による情報全公開と言っても、自分の情報だけでは枯渇するというか、情報が足りず発狂してしまうので、常に情報が動いている界隈に寄生することが必要だった。それが私にとっての女子サッカーの世界だった。魅惑から入った世界だったけれど、一緒に過ごしていた時間の大部分は、発信の維持への強迫観念が根底にあった。その状態からようやく離れて、私は安寧な、自分自身による時間を過ごせるようになってきた。それでもまだ、ここでの更新や特定の相手に発信しているところを見ると、強迫観念は完全には消えていないのかもしれないし、この程度や頻度の発信が、私にとってのデフォルトになるのかもしれない。*『ニュー・アース』(エックハルト・トール/サンマーク出版/2013Kindle版)という本を読んでいる。エゴに関する考察や処し方について、今のところ書いてある。恋の病を治したくて見つけた本なのだが、恋についての記述はそれほど多くなく、むしろ「ペインボディ」というものについての考察が、メンタルヘルスにとって大事な考え方のように思う。この20年やってきた病人としての自分が、この先、自分のエゴに程よく絡め取られないように、同時に他者のエゴを刺激する=同情を誘う安易なプロフィールにならないように。そして自分の抱えるペインボディをできるだけ癒せるように、暮らしていきたい。それを実践することが、ハチドリの雫であっても、地球を癒すことになるから。
2020.11.18 気がついたら地区に五行が降りてきていたので(これまでは四元素だったはず)、陰陽五行を学ばねばと思い、ほぼ手つかずの領域だったので、概要を掴んだあと、占いから入ってみた。古い知人が占い師をしていて、肝心なときは相談してきたので、用語については少しは知っているが、システム自体にアプローチするのは初めてだった。なぜ占いかというと、自分ごとにすると頭に入るのが早いからだ。東洋の占いはたくさんあると知り、片っ端から占ってみると、特に四柱推命で、自分の人生において起こってきたことに、納得の行く結果が多くもたらされた。東洋の占いは、かなりキツめなことを言ってくるのだけど、人間社会の中でどう生きるかみたいなこと、そのための指針や知恵が詰め込まれていると感じた。たいせつなひととの関係性も、ごく表面的には凶相ばかりで泣きそうになったのだが、分け入っていくと、私の状況を破壊的に転じる役割であったり、それぞれが抱える凶相や葛藤を和らげるのに必要な星を、お互いが持っていたりして、必要な人に惹かれているのだと分かった(しかもどの占いでも、だいたい私が一方的に強く惹かれたり、理想だと感じてる。大当たり笑笑)。とても安心した。運命も、理解の仕方次第、対処の仕方次第。占いによって運命を知ることが、運命自体を変化させてしまう側面もある(量子的観測の影響)けれど、それを踏まえても、私は今この占いに出会って、自分で可能なかぎり調べてみてよかった。西洋では天体や宇宙を占いに構造化するが、東洋では自然の理を占いに構造化している。地球や自然が大切になってくるこれからの時代は、地球を宇宙の一員と見る視点だけでなく、自然において人間がどう馴染んで生きるかが問われてくる。占いでは人間界のことが圧倒的だが、さらに自然との調和をもたらすような側面が出てくると、より運気を良いものにしていく手段が生まれるのかもしれない。易経のように、場面を占う、西洋でいうタロットやオラクルカード的な占いもある。もう少し東洋の占いをうろうろしてみよう。*しばらく前に怪我した右手の小指、日常のことができるギリギリの痛さなのだが、手のひら側に内出血が広がってきたのには驚いた! どこを怪我したんだ私は笑。*上述した本で、内的な気づき=いわゆる魂の仕事と、外的な目的=いわゆる一般的な社会生活での行動上の目的との調和を取るのは意外に大変だと教えてもらい、私もまさにそこでつまずいているので(気づきを得て隠遁しちゃう人もいるらしい)、結局、病院で、魂の仕事のことを改めて話して、現実との折り合いがなかなか困難だと言ったら、「二重見当識というものがあってね」と教えてもらった。非現実的な妄想があっても、身体は思ったよりまともに現実を生きているという、二重の世界に生きている感覚のことらしい。この病気で特有の在り方らしくて、やはり病気とされる状態から見ても、やってくるものと現実との折り合いはなかなか微妙なバランスなのだなと思った。*とうとうNintendo Switchを入手。久々に、(仕事を兼ねて)やりたいゲームができた。
2020.11.22 つらいのを、書くことで癒す。どこまで愚鈍でも私は私。*【Twitter】自分が夢中になっていることほど、それに終わりが来る(そこから解放される)という未来的な誘惑に贖えない。そうやって自分が始末に負えない自己へと破綻していく。23:31 20201119/強すぎる気持ちは、ことごとくエゴとして叩き潰される運命にある。自ら叩き潰すのでダメージも大きい。特に人の間では、エゴを太らせないように、常に見張っている必要がある。23:49 20201119/東洋の占いでみると、エゴが強い性質に生まれてきたらしいから、振り回されて苦労するとしても、それはそれで私だからいい。私だけが私を魂の芯から許してあげられる。私が許してあげないでどうするのか。11:38 20201120/私がSNSにこれを書いているのは、本当に誰かからの承認が欲しいからなのだろうか? 発信における白紙があるから書く、というような性質にも思う。承認してほしいのは、人からという限定ではなく、世界からなのかもしれない。そこには、私すら含まれる。昨夜から東京では風が強い。11:38 20201120/現実を生きる私というものの縁(へり)について、、縁(ふち)というか、何かと接触するところ(縁=えん)について考えすぎた結果、アカウントを非公開にしています。21:45 20201120*『恋愛依存性』(伊東明/実業之日本社/2015Kindle版)という本を読んだ。正視するのがつらかったので読み流した。タイプ解析を見ていて、自分は恋愛依存性にはあまり当てはまらない感じがすると思っていたが、私が成就の見込みのない恋に陥っていることに対して、あまりにも腑に落ちる理由が書いてあった。「恋をすると、ある物質が体内に分泌される。『PEA(フェニールエチルアミン)』であり、俗に『愛のホルモン』と呼ばれるものである。」「PEAは私たちの体が作り出す、天然の覚醒剤といえる。」「PEAは天然の覚醒剤であると先に述べたが、もう少し柔らかい言い方をすれば、ある種の『抗うつ薬』のような働きをするということもできる。」読んで目が覚めた。私は、恋をすることで、自家製の抗うつ薬がほしかったのだ。他の資料を当たると、このPEAという物質は、恋をすると出てくるホルモンのうちの一つで、出る期間にして3カ月〜3、4年、一人の相手に一度しか出ない、脳を破壊する系統のホルモンらしい。抗うつに効くかどうかという点では、実際、2年前くらいに決心して、前向きな気持ちで恋ができるようになってから、私の自分を責めるようなうつ症状は和らぎ、病気の主たる症状(情報全公開状態)も治まり、何年もかけて自主的に段階的に減らしてきていた強い薬を限界まで減らして、主治医を変え、今年の初めには比較的軽い薬に切り替えることもできた。その状況を経て社会に戻ってこられたことも、みんな恋のおかげだと思っている。たとえ片想いでも、完全に肯定的な気持ちで恋をすることは、これまでの私には難しいことだった。それが可能になったのは、相手の人のおかげだと思うし、その人でなければ、PEAとやらも出なかっただろう。長く苦しんできたうつから抜けられた状態というのは、それまでと比べて(恋をしていることもあって)まさに天国みたいな感じで、私は人生初とも言える幸福感を味わってきた。でも、この本によって、私が恋をするのは相手の人を幸福にしたいからとか、相手の人との関係を作りたいからとかではなく、自分が楽になるための抗うつ薬がほしいからなのだと分かったとき、相手の人に全力で渡してきたたくさんの言葉が、ことごとく嘘に堕ちたかのような気持ちになった。ものすごく泣いた。もちろん、これは極端に考えすぎで、恋をする理由は一つではなく、無意識も含めた総合的な自分の判断なのだろうから、すべてが抗うつ薬のためじゃなかったはずだし、恋に「自分のため」が入っていたっていいはず、むしろそうでなければ関係性は構築できない。私は恋を神聖視しすぎてきたのかもしれない。恋は人がするもので、人が相手なのだ。カラクリが分かってしまった以上、恋する気持ちが抑えられ、自家製の抗うつ薬が出にくくなることも予想される。病気の悪化やうつに引き戻される恐怖もある。恋をする自分や、相手の人に対して、たとえ虚偽のものであれ安心感を覚えられるようになっていて、それは生きる安心感とも深く繋がっていたから、今後が不安だ。恋というものは、成就に関しては成功や失敗というものがあるし、上手や下手もあるだろうが、どんな自分も信じてあげるという意味で、恋をすること自体に間違いはないと思っている。恋はこの世で、他者の存在を一心に認めようとする、いちばん強い力だとも感じる大事な感情だから、ともかく、なるべく自分を責めない方向で。*女子サッカーで9年応援してきた選手が、リーグ通算300試合出場を史上6人目で達成した。今季初めて観戦に行くつもりですべて準備していたが、この時期の私にはよくある、気管支の調子が悪くなり、風邪でもないのにどうしても咳が出てしまうので、観戦は断念して、動画配信で見守っていた。試合後、チームの公式サイトで、彼女が、来場して応援を続けてきてくれた人たちに対して心からの感謝を述べているのを読んだ。私は彼女の大事な試合に行かれなかった。でも、これでよかったのだ。お祝いの気持ちだけはきっと伝わっているから。*ゲームタイトルは『天穂のサクナヒメ』、土を少しずつ豊かにしていきながら毎年お米を育て、主に戦闘によって食糧を含む材料を日々調達して、仲間と暮らしていく(究極の使命がもちろん戦いの果てにある)。採取したナマモノは消費しないとみんな腐るので、保存食が可能になった時点から確実に加工、腐っても肥料作りに回すことができるようだ(そういえば初のお試しコンポストはあと1週間ほどで終了の予定だが、今の感じだと完全に肥料として分解されるのにもう少しかかるかもしれない)。そのため、本当に日々(ゲーム内における1日ずつ)戦闘による材料調達が必要なのだが、アクション系のゲームはやったことがないに等しい。昔、病気がひどくて外出がしんどかった頃、あるオンラインRPG内に何年か住んでいたことがあって、戦闘上の操作性に関してはいくらか経験があるが、完全なアクションではなかった。戦闘モードを低にできたので(稲作モードは変更なし)、それで遊んでいる。オンラインじゃないから、リアルタイムに同期した時間経過のプレッシャーも、ゲーム内フレンドのような関係による日課的なプレッシャーもない。むしろ新鮮に感じる。自分がやりたければやる、集中力が切れたらやめる。無駄にゲームに入り浸る必要がない。土を豊かにする方法が具体的なのがいい。お米や食糧の加工品によって、日々の献立がバラエティーに富んでくるのが嬉しい。*五行が病気にも実際的に当てはまることを知ったのはいいが、いつになったら比喩に到達するのか、想像がつかない。*この一連の流れは、しばらく人から離れて、ゲームに集中してろってことかもしれない。










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